医療関係者をはじめ、国民の生命と日本の経済を支えてくださる多くの「戦士」の方々に感謝。
私も、日夜戦っていらっしゃる「戦士」の方々に余計な負担をかけまいと外出を自粛し、在宅勤務をしております。
しかし、家でじっとしていると、どうもストレスが溜まってしまう。
そんなときこそ、笑いで緊張感をほぐしましょう。
そこで、みなさんに「小さな幸せ」のおすそわけ。
FBで読んでいる「おっちゃん、おばちゃんのゆるゆる倶楽部」から引用。
今の若い人は、旧一万円札を知らないんだろうな。
こんな猫ちゃんがいたら飼ってみたい。
Bu Bu Bu...
しらないぞ、しらないぞ。
これを見て笑っている、そこのご同輩。
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こういうネタを考えられる人を、「天才」っていうのでしょうね。
新渡戸稲造がボン大学に留学していたときのお話。
FBから引用・転載。
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近くの公園を散歩していると、カトリックのシスターが
大勢の孤児を連れて歩いているのを見つけました。
孤児たちは、同年代の子が親と楽しそうに遊んでいるのを見て、
悲しそうな顔を浮かべています。
その日は、ちょうど新渡戸の母親の命日でした。
そこで、彼は母親に供物をする代わりに、
あの子たちにプレゼントを贈ろうと考え、
近くにいたミルク売りの女性に声をかけました。
代金を払うから、あの孤児たちに
ミルクをあげてほしいと頼みました。
もちろん、彼からのプレゼントだということは
秘密にしてもらいました。
ミルク売りの女性はシスターにこの申し出を伝え、
孤児たち全員にミルクが配られました。
突然のプレゼントに子供たちは大喜び。
そして、全員が飲み終わると、
シスターは孤児たちに話します。
それにより、公園内には
素晴らしい時間が流れることになったのです。
シスターの孤児たちに向けた話はこうでした。
「私たちに施しを下さった方が、どなたは分かりません。
ですが、私たちは感謝の気持ちを伝えるために、
全員で讃美歌を歌いましょう」
公園内には、素晴らしいコーラスが響いたといいます。
子供たちの澄み切った瞳、透き通った歌声に、
新渡戸は、母親の命日によいことができたと満足しました。
そして、シスターと孤児が公園から去るのを見届けると、
代金を払うためにミルク売りの女性のもとへ向かいました。
ところが、ミルク売りの女性は、
代金を半額しか受け取ろうとしません。
「私も孤児たちにミルクをあげたいと思っていましたが、
商売のことを考えると、なかなか行動を起こすことはできませんでした。
なので、ミルク代は原価だけ受け取らせてください。
今日は本当にありがとうございました」
ミルク売りの女性もまた、温かな心を持っていたのです。
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GW後半のまったり時間。
この記事を読みながら、
私も温かな心になれました。
当家は浄土真宗ではない。しかし旧暦のお盆を前にした今、美しい仏教説話は誰の心にも染み入るものである。
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幕末から明治にかけて活躍した女流歌人に税所敦子(さいしょ あつこ)さんという方がおられます。彼女は、文政8年(1825年)京都の宮家付き武士(宮侍)の家に生まれ、幼い頃から歌に親しまれ、20歳で薩摩藩邸(京都)に勤める税所篤之(さいしょ あつゆき)氏と結婚されます。
短期で気性の激しい夫によく仕え、近所の人からは、「あんなに無理を言われて、よく我慢しておられますね」と言われたそうですが、そんな時決まって
「武士の妻として、何かと足りないところの多い私を人並みの武士の妻にしてやろうとの思いから、言葉も荒くなったり、手も上げられるのでしょう。夫の憤りの強いのは私のことを思ってのことです。ですから夫のことは少しも怨んではおりません」
と、答えたといいます。
こうして献身的に仕える敦子を、いつしか夫も心からを敬愛するようになるのですが、その幸せも長続きせず、彼女が28歳の時、夫は病で亡くなります。しかし、悲しみにくれる間もなく、彼女は姑の世話をするため、一人娘(徳子)を連れて、夫の郷里である鹿児島に赴くのです。
鹿児島には姑のほか、篤之と前妻との間にできた2人の娘、さらには五人の子供を連れた弟夫婦が同居しているという大家族でした。ことに姑は近所の人から「鬼婆」と、陰口されるほどの気性の荒い人で、敦子に対しては事毎に意地悪く当たるのです。
しかし彼女はそれをじっと辛抱するばかりか、「まだ自分のお世話が行き届かないからだ」、「自分に足りないところがあるからだ」と、自らに言い聞かせ、姑に仕えるのです。 酒好きな姑の食事は彼女自ら調理をし、また毎夜手洗いに行く姑のため、一夜も欠かさずローソクを持って案内するなど、心を尽くして、姑に仕えます。
当時の鹿児島は"よそ者"を嫌う気風が強いところでしたが、孝養を尽くす彼女の姿に人々は皆、これを賞賛して止みませんでした。
そんなある日のことです。外出先でどうへそを曲げたのか、憮然とした面持ちで家に帰った姑は、彼女を呼び寄せ次のように言うのです。
「あんたは歌を作るのが上手だそうだな。今、この婆の前で一つ歌を作って見せてくれぬか」
「はい、いかような歌を作りますので」と、彼女は素直に応じました。 「それはな、この婆は、世間で鬼婆と言いますじゃ。それで、その鬼婆の意地の悪い所を正直に歌に読んでくだされ」
敦子は驚いて、「まぁ、とんでもない。」と言って、しばらく熟考した後、次のような歌を短冊にしたためるのです。
仏にもまさる心を知らずして
鬼婆ばりと人は言ふらん
短冊を手に取り、しばらく無言で見ていた姑は、ついに大粒の涙を流し、「今日まで意地悪のし通しじゃった。それほどまでにねじれきったこのわしに《仏にもまさる》とは……本当にすまなかった。許しておくれ」と手をついて心から謝まったそうです。
歌人である彼女は次のような歌を作り、いつも自らを厳しく律していました。
朝夕のつらきつとめはみ仏の
人になれよの恵みなりけり
いかなる苦労があろうとも、それは「本当の人間になってくれよ」と働きかけてくださるみ仏の「お恵み」ですという歌でありますが、いかなる苦難をも恵みと受け止めていくところに、長年仏法に親しんでこられた彼女の素晴らしい智慧が光っています。
その後、彼女の貞節ぶりが、薩摩藩主島津久光公の耳に入り、登用されて、その息女に仕えて10年、更に島津家から近衛家に嫁入られる際に伴われて近衛家に移って10年、よくその任を果たされます。
さらに明治8年、高崎正風の推挙によって、宮中に入り、明治天皇皇后両陛下のお世話係(掌侍)としてお仕えすることになるのです。 両陛下のご信任ことのほか厚く、人々は彼女を明治の紫式部と讃えました。
また、宮内卿・伊藤博文公も、たびたび彼女と打ち合わせをする機会があったそうですが、「あれ程えらい婦人に会ったのは初めてだ」と、周りの人に話していたといわれています。
また宮中にあっては、外国要人の接待に不自由とのことで、50歳を過ぎてフランス語、英語を勉強され、短時日のうちに習得したとのことです。
こうして波乱多き人生を送られた税所敦子さんは明治32年2月、多くの人に惜しまれながら76年の生涯を閉じられました。
清楚で気品があり、文学の素養豊かにしてしかも謙虚である、まさに彼女こそ「千古の婦人の鑑」であります。
~浄土真宗本願寺派 光明寺『今月の法話』 より引用・転載~
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「明治の紫式部」と称された税所敦子。私は、当時と現在の物差しの違いを比較して、何かコメントするつもりはない。
しかし、時代は変わっても、人々は苦労ばかりの毎日であることには変わりはない。私も税所敦子に学び、素直で謙虚な日々を過ごしたいものである。
さあ、休暇を返上して仕事に行ってくるか!
かつて、アインシュタインが日本を訪問された時、仏教について知りたいということで、真宗大谷派の僧侶、近角常観先生と対談されたことがありました。
その対談の中で、アインシュタインが
「仏さまとはどんなお方ですか」
と尋ねられたそうです。
そこで近角先生は、姥捨て山にまつわる伝説を例にあげて、説明されました。
姥捨て山のことは、皆さんよくご存知のことと思います。
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食糧事情の貧しかったその昔、日本のある地域では一定の年齢に達した老人は、口減らしのために山に捨てられるという風習のことです。
そんな悲しい風習の残っていた頃の話です。
信濃の国の姥捨て山の麓に住む、ある若い農夫が.老いた母親を捨てに行くことになったのです。
たとえ親思いの息子であっても、村の提に背くわけにはいきません。
背けば家族は村におれなくなります。
若い農夫は村の提に従って、母親を龍に乗せ、姥捨て山へと向かっていったのです。
ところが、その道すがら,背中に負われた母親が、しきりに木の枝を折っては道々に捨て ていくのです。
これを見た若者は、
「ひょっとして、母親は山奥に捨てられる恐怖心に耐えかねて、この落とした枝をたどって、また家に帰ってくるつもりではないのか」
と疑ったのです。
「気丈な母親でも、やはり最期は自分のことしか考えないのか」
と、少し蔑むような目で見ていました。
どのくらい歩いたでしょうか、とうとう捨て場所と思しきところにやってきました。
息子は母親を背中から降ろし、別れを告げて帰ろうとしました。
その時、母親は息子の袖を捕まえて言うのです。
「いよいよこれがお前との一生の別れじゃ。
身体に気をつけるんだよ。
ずい分山奥まで入ったから、
お前が家に帰るのに道に迷って困るだろうと思って、
私が来る道すがら、小枝を落として目印をしておいたから、
それを頼りに、無事家に帰るんだよ。そして立派に跡をついでおくれ」
そう言って、母親は息子に手を合わせるのです。
その母親の姿を見て若者は泣き崩れました。
こちらは母親を捨てているのに、母はこちらをこんなに憂いている。
こんな母をどうして捨てられようか、息子は思わず知らず、草むらに両手を着いて
「どうかこの籠にお乗り下さい。これから我が家に御伴して、一代の限りお仕えいたします」
と言って、再び母を背負って山を降りたということです。
日本には古くから次のような古歌が残っています。
「奥山に 枝折る栞(しおり)は
誰(た)がためぞ
親を捨てんと いそぐ子のため」
ここまで話をされた近角先生はアインシュタインに、
「この母親の姿こそ、仏さまの姿であります」
とおっしやられたのです。
年老いた母親は、このまま捨ておかれたら、その夜のうちに凍え死ぬか狼のえさになるでしょう。
そうでなくても数日中には餓死するでしょう。
そんな状況にありながらも、母親は自分のことは一切顧みないで、ひたすら我が子が無事家に帰れるかどうかだけを心配しているのです。
母は、今まさに自分を捨てようとしている我が子を見捨てることが出来ないのです。
自分を殺そうとしている者をどこまでも生かそうとするのです。
これが仏さまの心だと言うのです。
涙を湛えてこの話を聞いておられたアインシュタインは、帰国するに臨んで、
「日本人がこのような温かい深い宗教を持っていることはこの上もない幸せなことです。日本に来てこんな素晴らしい教えに出道えたことは私にとって何にも勝るものでした」
と語ったそうです。
~浄土真宗本願寺派 光明寺『今月の法話』 より引用・転載~
「覚えてますか?」
と、決まって電話の最初の言葉はこうである。
難関試験突破のお知らせ、
表彰を受けた報告、
結婚が決まった話などなど、
ここ数週間不思議なくらい、こちらとしても嬉しくなる知らせが続々かかってくる。
幸せ報告とは、重なるなるときは重なるものである。
彼ら、彼女らの電話口での弾むような声。
中には、何年も挑戦し続け合格を勝ち取った部下からは、
「試験を受けると決めてから、合格したら一番に報告するって決めていたんです。でも不合格のときは、逆に心配をかけてしまうと思って電話できなかったんです。」
と、うれし泣きをしながら謝っていた。
何も謝る必要はない。この日を待っていたのだ。
かつて一緒に戦ってきた若き戦士たち、
何年過ぎても、職場が離れても、
彼らの一人一人を決して忘れるわけがない。
みんな、おめでとう。
そして、みんなありがとう。
私も幸せな気持ちになれました。
出張先で沖縄料理店に入る。
タコライスと海ぶどう。
飲み物はサンピン茶
オリオンビールは、我慢我慢。
気分だけ沖縄にいます。
とっても幸せ!
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